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「奈良に新たな食文化を」150年続く老舗の跡取りがローカルベンチャーを始めた理由
奈良県

「奈良に新たな食文化を」150年続く老舗の跡取りがローカルベンチャーを始めた理由
合同会社ほうせき箱代表 ヒライソウスケさん

創業150年という老舗柿の葉寿司メーカーを継ぎ、2011年に代表取締役に就任したヒライソウスケ氏。しかし、2015年にかき氷店「ほうせき箱」を立ち上げ、その2年後に老舗柿の葉寿司メーカーの代表を辞任。「奈良=かき氷」を根付かせるために積極的に活動し、奈良にかき氷ブームをもたらしました。老舗からベンチャーへ。華麗な転身を実現するに至るまでの来歴や、節目で考えてきたことをお話しいただきました。

ヒライソウスケさん

奈良県吉野町出身。慶應義塾大学商学部卒業後、パレスホテル(現パレスホテル東京)に就職。その後奈良に戻り、家業である柿の葉寿司の老舗メーカーに就職。炊飯ライン等の現場を経て料理店、ネット通販事業、営業、ブランディング、人事などを経験し、2011年代表取締役に就任。また、「なら瑠璃絵」「なら国際映画祭」の実行委員として活動。奈良の食文化、イベント運営の面白さと課題を実感。 2014年8月「ひむろしらゆき祭」を仲間と立ち上げ、2015年2月合同会社設立、同年3月「ほうせき箱」を開業。2017年3月家業の代表を退任、ワクワクするような新しい奈良の食文化を模索している。

※ヒライさんが手がける地域事業と戦略については「かき氷を”面”で見せ滞在型観光へのシフトを狙う。行列のできる店の地方創生」をお読みください。

記事のポイント

  • 上京とともに消えた出身地 奈良への劣等感
  • 家業を継ぐためUターン。イベント運営に注力
  • 自分の能力を見極め、老舗からベンチャーへ転身

奈良に住んでいるという劣等感からの脱却

ー中学・高校生時代はどのような生徒でしたか?

とても生意気な生徒だったと思います。小学校の時は勉強、運動ともに人より少しは優れているつもりでいたのですが、大阪の中高一貫進学校に入学したとたんに、文武両道の優秀な人ばかり。自分の非力さを痛感しながらも「自分はできる」と思いたい思春期ならではの強い気持ちがあり、周りに対して生意気な態度を取っていました。クラブ活動でもレギュラーになれず、成績も常に底辺付近。気がつけば、友達も少なく、軽いいじめに遭うことも。それから徐々に学校に行くのが嫌になり、一時は退学したいと先生に相談もしました。当時は「奈良」から通っていることでよく田舎者扱いされ、バカにされました。それが、自分の劣等感と相まって、奈良コンプレックスになっていったんですね。今思うと、奈良から通っていたのは僕だけではなかったし、他の同級生はそのことでことさら馬鹿にされてはいませんでした。当時は何をやってもうまくいかず、自分の居場所を見つけることができなかったのです。

ヒライソウスケ氏

ー多くの人と関わられている今のヒライさんからは想像がつかないですね。その後の進学はいかがでしたか?

高校1年の夏、学校をやめたいと相談した先生に、今からでも真剣に勉強すれば私立文系なら早慶でもいける、とはっぱを掛けられ、スイッチが入ります。そんな様子を見て同じ大学を目指す優秀な友達が一緒に勉強しないかと誘ってくれました。とにかく、いい思い出のない関西から出ていきたい、自分を馬鹿にしたやつを見返したい一心で、東京の大学を目指す仲間と必死で勉強しました。お陰様で1年浪人はしましたが無事に志望校に合格することが出来ました。

ー大学時代のヒライさんについて教えてください。

東京の大学では、地方出身者が多いこともあり、また奈良に対して文化的に良いイメージを持ってくれている人も少なくなく、奈良コンプレックスが徐々に薄れていくと同時に、自分の生意気さも薄れていったように思います。そして、歌舞伎と出会い、大学では演劇に情熱を注ぎました。それまで居場所のなかった僕が久々に見つけた場所がお芝居だったんです。一時は俳優になりたいと考えたこともありましたが、結局その道には進みませんでした。

奈良でクリエイティブなことに携わりたい

ー卒業後は家業である柿の葉寿司メーカーを継がれたのですか

いいえ。家業を継ぐという意識はなく、別の会社を目指し就職活動に励みました。残念ながら、希望した企業の内定を取ることができませんでした。ちなみに、僕が志望した業界は大きなイベントを企画できるマスコミやラジオ局。ことごとく内定まで至らず、卒業まですでに半年を切っていた頃、父から「サービス業を1社くらい受けたらどうだ?」と指摘を受け、気が進まぬまま当時まだ2次募集をしていたパレスホテルの面接を受け、幸運にも入社が決まりました。そこで2年ほど働かせていただき、接客における所作や立ち振る舞い、考え方などの基本スキルを学びました。その後、家業を継ぐことを決め、奈良へ戻りました。

ーなぜ家業を手伝おうという気持ちになったのでしょうか?

正直、東京での生活に少し息苦しさも感じていた頃でした。また、ホテルという食・サービスに関わる仕事に進んだ時点で、なんとなく家業を手伝う運命なのかなあという気持ちになっていたんだと思います。退職して奈良に戻ると、ちょうど奈良出身の映画監督、河瀨直美さんが『萌の朱雀』という奈良県西吉野村を舞台にした映画でカンヌ国際映画祭で史上最年少で新人監督賞を受賞したんです。「クリエイティブは東京」というイメージに縛られていた自分にとって雷に打たれたような衝撃でした。その2年後に「なら燈花会」という広大な奈良公園を中心に2万本ものロウソクを灯す素晴らしいイベントがスタートしたことにより、自分の中での「奈良」の存在感が大きく尊いものとなりました。「自分も奈良でクリエイティブなことに関わりたい」そんな気持ちが大きくなるとともに、奈良で生きていくことにワクワクするような未来を感じました。しかし現実は、毎朝5時に出社し、寿司製造、炊飯、配達、と日々の業務に追われる日々でした。

ーその後、ヒライさん柿の葉ずしメーカーの代表取締役に就任されます。就任までのいきさつについて教えてください。

奈良に帰ってきた翌年に新規で和食店をオープンすることになり、店長を任されることになりました。その後、7年ほどの店長経験を経て、2008年工場の移転のタイミングで本社に戻り旧工場閉鎖、2009年新工場を立ち上げ工場長に、2011年代表取締役に就任しました。

ーヒライさんは会社の代表を務められる傍ら、「なら瑠璃絵」の会長や「なら国際映画祭」の実行委員長も務められました。そのいきさつについて教えてください。

奈良でクリエイティブなことに関わりたいという気持ちはずっと持っていたので、「なら燈花会」の運営に関われるということで奈良青年会議所に入会、その後7年に渡り「なら燈花会」をはじめ大小さまざまな奈良のイベントに関わらせていただきました。そして、青年会議所卒業後、「なら瑠璃絵」の立ち上げや「なら国際映画祭」開催運営に力を注ぎました。しかし、大きな事業にはいろいろ課題もあって、自分の能力と、担うタスクや降りかかるリスクの間に大きなギャップを感じていました。かき氷の事業を本気で行っていこうと決めたタイミングで、全てのイベントから手を引くことを決め、今に至ります。

ー会社運営と地域イベントとの両立は大変だったのではないでしょうか?

一番ひどかった時期は、朝3時からお寿司を作って、夕方6時くらいまでさまざまな会社の仕事をこなし、その後深夜1時2時まで青年会議所の会議を行うという生活が続きました。また土日になるとイベントの手伝い、青年会議所絡みの出張などなど。そのような状況が続くと当然のことながら、会社には理解してもらえないことも多かったです。父からも「今、どこや!何やってるねん!」と頻繁に電話がかかってきました。結果的に、さまざまなイベントに関われたことは経験として今に生きているのですが、社内での説明が不足していたことは確かでした。

このメディアは「地方創生」を「業界」として定着させ、そこで活躍する人を可視化し応援する為に生まれました。

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